- 2024/04/20 [PR]
- 2011/03/03 救助 ではなく 援助
- 2011/03/02 「 救助ゲーム 」
- 2011/01/28 もの の言い方
救助 ではなく 援助
2011/03/03 19:06:17
クロード・スタイナー博士の「アルコール中毒者の演じるゲームと人生脚本」や
交流分析の創始者;エリック・バーン博士の理論などをお読みになることを お勧めします。
ここでは、その理論に忠実ではなく、私自身の考えを交えた内容となっておりますので、
ご了承ください。
「力になりたい」「助けてあげたい」といった感情は、とても素敵ではありますが
表面上には、相手を助けているように見えても、実際は相手の弱さ・無力さを強調していることが多い。
果たして、本当に他者からの 何か がなければ、その状況から抜け出せないか。
辛い状況・感情から他者の力によって、一時的には救われることはあるけれど
それと同時に それらを経験し、処理するチャンスを失うこととなり、また同じようなことを繰り返し続けるケースにも繋がる。
行きずりの・・・・その場限りの相手なら そういった救助も必要であろうし、有効かもしれない。
でも、家族や大切な友だち・仲間だとしたら、どうなのだろう。
一時しのぎの助けをし続けるとして、一生相手の傍で し続けることは出来ない。
とすると その助けは、「自分の自己満足、自分の不安解消のためには有効」でしかなくなる。
「こうすれば、解決するよね。ほら」とやってあげる。
「しょ~がないな~、やってあげるよ。」と即解決。
苦しみの度合いによっては、双方にとって良い方法かもしれない。
ただ、人生の岐路、命が関わっている時、生活に大きな影響を与える問題の時、
その人の困難は、その人の成長のために用意された事柄。
それを他者が、回避させてあげることは、よいことではないと誰でも知っている。
それでも、やってあげたくなる思いは、なぜ出てくるのか。
どう処理したら良いのか。
まずは、自分が何故そうしたくなるのか、自分の気もちと向き合って、自分を知ることから始める。
「 救助ゲーム 」
2011/03/02 18:56:39
“ 救助者 ”「 あなたは無力でどうすることもできないから、助けてあげましょう。」
“ 迫害者 ”「 あなたが無力でどうすることもできなのは、あなたの責任だよ。 」
救助者と迫害者の役割は、切り替えながら演じられることもある。
始まりは・・・・・
「 痛い・・・・力が出ない・・・・動けない・・・・ 」
などという自分の外からの何かによる 犠牲者としての訴え。
↓
“ 救助者 ”は、犠牲者のために何かをしてあげ、
犠牲者が自身の世話をすることを妨げる。という形で、助けようとする。
・自分で出来るにもかかわらず、モノや事を与える。
・絶え間なく助言を与える。その多くは拒絶されているので、更に何度も助言する。
・相手の要求を尋ねもせず、推測してするため、相手の不愉快なことでもしようとする。
この「 救助ゲーム 」はよくあるパターン。
“ 救助者 ”という役割を演じる人は、相手を愛し、世話をしているように見えますが、実際は身体的・精神的に無力になるのを手助けしてしまう。
自分の欲求とは違う救助を受け続ける“ 犠牲者 ”は、時に操られているように感じ、時に望んでいない救助に対して、暗に感謝を強いられていると感じ、いらだち始める。
“ 救助者 ”は、相手のニーズに応えてきたと考えているので、苛立つ“ 犠牲者 ”に腹をたてる。
「 こんなにやってあげているのに! 」 「 なんで、わかってくれないの? 」
更には、腹をたてたことに罪悪感を感じたり、そんな自分が嫌になったり、自分はなにも出来ないと無力感にとらわれてしまう。
いつの間にか、“ 救助者 ”は、“ 迫害者 ”となったり、
“ 救助者 ”自身も“ 犠牲者 ”になっていく。
このゲームに陥ってしまうと 誰のためにもならず、かえって関係も悪くなるばかりか、それぞれの孤独感を増してしまう。
私達の生活の中で、よく見られるパターンですが、こうならない為に何に気づけば良いのか。
パターンを知り、気づくことで、このゲームをしないですむポイントが分ります。
始まりは、甘えたい・安らぎたい・寄り添いたいといった、
相手に対する好感や安心感の表れだったかもしれない。
それに対して、受け止めたい・出来ることを手伝いたいという
相手に対する思いやりだったかもしれない。
いずれにしても、そこには「 好意 」があったはずなのに結果は好ましい形にならない。
いつの間にか、お互いがストレスを抱え、ストレスを与えあってしまう。
そんなことにならない為のポイントを ちゃんと心に留めてサポートする。
それが、支え合うという形。
それは、『 救助 』ではなく、『 援助 』という姿勢。
もの の言い方
2011/01/28 22:04:41
総てが自分の思う通りにレイアウト出来ますよね。
でも、誰かと暮らすということは、そうはいきません。
お互いの趣味や事情、思いなどが絡んだ テリトリー争いも起こります。
断捨離の鉄則として、「 人のものには、手を出さない 」というのがあります。
「 手 」だけでなく、「 口 」も出さない方が良いですよね。
まずは、自分。
自分のものや 自分の確かなテリトリーを 黙々と断捨っていると「断捨離」は感染します。
さて、このお正月に家族が破魔矢を買ってきました。
そして、こともあろうか、玄関のシューズボックス上のスペースにガビョウで止めたのです!
しかも! 天使の頭を支えにして・・・・・。ガーン=( ̄□ ̄;)⇒
もちろん、私には何の相談も無しで、気づいて驚いた。
別にウチはキリスト教徒では無いのですが、このマリア像のお顔に一目ぼれで、購入。
ゴシック趣味の私は、天使とか堕天使とか好きなので、周囲に天使のオブジェを飾っている。
信仰ではなく、あくまでオブジェとしてディスプレイしているわけですが、この場所には統一性と空間を出してます。
帰宅して、ほっとすると同時に 無事に帰れたことを感謝する気持ちにもなります。
クリスチャンではないけど、マリア像と天使の空間に 破魔矢~~~~???
と納得できない!
「 何コレ 」では、喧嘩を売ってしまうわけで、一旦は諦めました。
別に悪気があってやったわけではなく、家族の幸せを願って破魔矢を買い、神棚がないからココに置いたのでしょう。
天使の頭を支えにしてね・・・・・・。
数日は、気にしない、善意の現れなんだから・・・・と思いこもうとしてたけど、やっぱ気になる。
で、ふと思った。
果たして破魔矢の飾り方に流儀はあるのだろうか?と。
ググってみた。
1、神棚でなくても良いけど、頭より上の位置。
2、矢は、その年の凶角の方向へ(今年は西と東らしい?)
3、家内事(家族円満とか)は矢を家の中へ向け、商売繁盛や合格祈願は外へ向ける。
などなど、結構細かい。
よっしゃ!頭より上な!! じゃあ、この場所はダメじゃん!
と思いついた。
でもって、相手の気分の良さそうな時に切り出してみた。
「 お願いがあるんだけど、もし出来たら、あの破魔矢を玄関の上に留めてくれないかな?
頭の位置より上に飾るとご利益があるんだって。
それに破魔矢の下を通って出かけて、下をくぐって帰宅って、なんか鳥居みたいで、
厄除け?みたいな、厄を家に入れないような感じがして心強いし、出かける時も
火打石みたいな無事に帰って来れますように・・って感じするじゃない? 」
とね。
「 雰囲気が壊れる 」「 あそこに置くのは嫌 」「 やめて 」「 どかして 」
という言葉は一切、使わずに言ってみると、
「 いずれ場所を変えようか、しまおうと思ってたんだ。
そうだね、近い内に玄関の上に移動しておくね。 」
とすんなり~♪
そして、無事にこんな感じにo(^-^)o それぞれの空間に分れました。
嫌~~!と思っていた破魔矢も、おっ!いい感じ♪と思えるようになった。
ものは言いよう。
いつもいつも上手くいくとは限らないけど、
お互いの気持ちに余裕のある時、
否定的な言葉を使わずに
こうしたら、もっと良いと思うけど、どうかな?
そして、相手のNOという答えも予測して、気持ち良く受け入れる準備を。
更に、お願いを聞いてくれたから、
「 移してくれて、ありがと!すっごく守られてる感があるね~ 」
と やってくれたことに対する一言も忘れずに。
以上、珍しく?素晴らしく上手くいったコミュニケーションを記録。
何かの参考になれば、幸いでございます。v(*'-^*)ゞ・'゚☆ブイ