サバイバーズ・ギルト
2010/07/20 21:33:34
その場に居た他の人々が亡くなったのに 自分は助かったことに対して抱く罪悪感。
今、調べているのですが、尼崎JR脱線事故で生き残った生存者は
「人の重みで亡くなった人も多いと聞いた。自分は誰かがクッションになって助かったのかも」
「息苦しくて、自分が身体を少し動かしたために 下の人に圧力がかかり、その重みで亡くなったかもしれない。」などの思考が強く、未だに事故を昨日のように感じ
「夢の中で 人の悲鳴がし、圧迫感を感じて目が覚める。」という。
他にも戦争や原爆の中、周りで死にゆく人たちの中、助かった人は
「たとえ怪我をしてても、他の人の救助活動をすべきだった。」とか。
そういえば以前に 飛行機事故で1人の少年だけが生き残り、他は全員死亡。
その少年は、「なんで自分だけが」「なんのために」と生きていることにマイナスの重さを感じていた上、多くの人に、「みんなの分も生きなくてはね。」という言葉に 耐えかねていた。
今回、調べているのは、がんなど重篤な病で、同じ病室、同じ病などで亡くなってしまった人
つい昨日まで話していたのに、自分は回復に向かい、その人は亡くなったことについて
無意識に罪悪感を感じてしまっている人の心。
事故や事件よりも 表面化しずらいようだが、治療の効果や自己治癒能力には確実に影響を及ばしてしまうのだろう。
神戸の震災に関して調査していた人が、被災者たちの話を聞いていくうちに
なぜか、自分がこうして生きていることが悪いような思いが湧いていた。
ということも言っていたが、取材が終わってしばらくするとその気持ちはおさまったそうだ。
これは、罪悪感というより、共感、無力感といったものかな。
サバイバーズ・ギルトが、本来の意味から離れ、友人・知人が自殺したことを聞いて
「なぜ助けられなかったのか」「なぜ気がつかなったのか」と自分が原因ではないのに責める
というのがあるが、目の前で死なれたわけでもなく、また死ぬ決意をしている人は周囲の人に悟られないようにする(邪魔されないようにするため)と言われているわけで、止められることなどは精神科医でさえ稀と言われている。
これも罪悪感ではなく、無力感、悲哀、喪失感といったものだろう。
集団自殺の1員で、生き残ったのならともかく、その死の現場にも居合わせていないのだから。
しかし、これらの無意識に湧きあがってきている独断的推論、自己関連付けは、同じ流れなのかもしれないし、違うかもしれない。
その辺りが、まだ良く判断できない。
自分も同じ状態であったのに、誰かは亡くなり、自分は助かった時に湧きあがってくる感情が
サバイバーズ・ギルトであって、誰かに死なれた場合とは違うように感じる。
目の前で死んでいく相手が大切な人どころか、見ず知らずの人達にさえ抱いてしまう思いが、
サバイバーズ・ギルトなのだと思う。