救助 ではなく 援助
2011/03/03 19:06:17
クロード・スタイナー博士の「アルコール中毒者の演じるゲームと人生脚本」や
交流分析の創始者;エリック・バーン博士の理論などをお読みになることを お勧めします。
ここでは、その理論に忠実ではなく、私自身の考えを交えた内容となっておりますので、
ご了承ください。
「力になりたい」「助けてあげたい」といった感情は、とても素敵ではありますが
表面上には、相手を助けているように見えても、実際は相手の弱さ・無力さを強調していることが多い。
果たして、本当に他者からの 何か がなければ、その状況から抜け出せないか。
辛い状況・感情から他者の力によって、一時的には救われることはあるけれど
それと同時に それらを経験し、処理するチャンスを失うこととなり、また同じようなことを繰り返し続けるケースにも繋がる。
行きずりの・・・・その場限りの相手なら そういった救助も必要であろうし、有効かもしれない。
でも、家族や大切な友だち・仲間だとしたら、どうなのだろう。
一時しのぎの助けをし続けるとして、一生相手の傍で し続けることは出来ない。
とすると その助けは、「自分の自己満足、自分の不安解消のためには有効」でしかなくなる。
「こうすれば、解決するよね。ほら」とやってあげる。
「しょ~がないな~、やってあげるよ。」と即解決。
苦しみの度合いによっては、双方にとって良い方法かもしれない。
ただ、人生の岐路、命が関わっている時、生活に大きな影響を与える問題の時、
その人の困難は、その人の成長のために用意された事柄。
それを他者が、回避させてあげることは、よいことではないと誰でも知っている。
それでも、やってあげたくなる思いは、なぜ出てくるのか。
どう処理したら良いのか。
まずは、自分が何故そうしたくなるのか、自分の気もちと向き合って、自分を知ることから始める。
「 救助ゲーム 」
2011/03/02 18:56:39
“ 救助者 ”「 あなたは無力でどうすることもできないから、助けてあげましょう。」
“ 迫害者 ”「 あなたが無力でどうすることもできなのは、あなたの責任だよ。 」
救助者と迫害者の役割は、切り替えながら演じられることもある。
始まりは・・・・・
「 痛い・・・・力が出ない・・・・動けない・・・・ 」
などという自分の外からの何かによる 犠牲者としての訴え。
↓
“ 救助者 ”は、犠牲者のために何かをしてあげ、
犠牲者が自身の世話をすることを妨げる。という形で、助けようとする。
・自分で出来るにもかかわらず、モノや事を与える。
・絶え間なく助言を与える。その多くは拒絶されているので、更に何度も助言する。
・相手の要求を尋ねもせず、推測してするため、相手の不愉快なことでもしようとする。
この「 救助ゲーム 」はよくあるパターン。
“ 救助者 ”という役割を演じる人は、相手を愛し、世話をしているように見えますが、実際は身体的・精神的に無力になるのを手助けしてしまう。
自分の欲求とは違う救助を受け続ける“ 犠牲者 ”は、時に操られているように感じ、時に望んでいない救助に対して、暗に感謝を強いられていると感じ、いらだち始める。
“ 救助者 ”は、相手のニーズに応えてきたと考えているので、苛立つ“ 犠牲者 ”に腹をたてる。
「 こんなにやってあげているのに! 」 「 なんで、わかってくれないの? 」
更には、腹をたてたことに罪悪感を感じたり、そんな自分が嫌になったり、自分はなにも出来ないと無力感にとらわれてしまう。
いつの間にか、“ 救助者 ”は、“ 迫害者 ”となったり、
“ 救助者 ”自身も“ 犠牲者 ”になっていく。
このゲームに陥ってしまうと 誰のためにもならず、かえって関係も悪くなるばかりか、それぞれの孤独感を増してしまう。
私達の生活の中で、よく見られるパターンですが、こうならない為に何に気づけば良いのか。
パターンを知り、気づくことで、このゲームをしないですむポイントが分ります。
始まりは、甘えたい・安らぎたい・寄り添いたいといった、
相手に対する好感や安心感の表れだったかもしれない。
それに対して、受け止めたい・出来ることを手伝いたいという
相手に対する思いやりだったかもしれない。
いずれにしても、そこには「 好意 」があったはずなのに結果は好ましい形にならない。
いつの間にか、お互いがストレスを抱え、ストレスを与えあってしまう。
そんなことにならない為のポイントを ちゃんと心に留めてサポートする。
それが、支え合うという形。
それは、『 救助 』ではなく、『 援助 』という姿勢。
弥生三月、春まだ・・・・おあづけ?
2011/03/01 21:36:23
それでも、アクセスを頂き、有り難いやら、まか不思議やら・・・・。
過去記事にヒットしての一見様アクセスという、ブログとは過去を背負って生きていく人生を垣間見れますね。
いえ、現実には過去をそう簡単に見られないのに、まるでオンタイムのように見られてしまう。
なんとも、こっぱずかしいツールなんだなぁ。
チョコチョコと覗きに来て下さっていたリピーターの皆さま。
ご無沙汰しております。樹でございます。m(__)m 相も変わらず生きてます。
この半年、研修もセミナーも最低限に抑え、カウンセラピストとしてではなく、一人のサポーターとして家族と向き合っていました。
患者さんのご家族など向けに組まれているメソッドを 心に刻み込みながら。
「言う」と「やる」では、やっぱり違う。
この難しさを体感。
家族とは、なんと複雑で、単純で、素晴らしいものなんだろう。
言葉でその歴史を物語ることも出来ないほどの数々の思いが積み重なり、どうにもならない思いが、わかっちゃいるけど出来ない言動を繰り広げる。
総ての根源は、「たまらなく好き」という単純明快な思いなのに。
人間関係・社会の縮図。
全てはここから。
そんなことを 痛感しました。
信頼し続けること、信頼されること、素直になること、助けあうとは。
泣き笑い、怒り怒鳴って、抱きしめ合う。
かっこ悪くても、ドロ臭くても、精一杯やってみる。
それが正解かどうか、上手くいくかいかないかより、私に出来ることはこれだから。
そして、家族ひとりひとりに出来ることが、これだから。
みんな、それでいいと思える。
この半年間で、心に留めて行動したメソッドや感じたことを 思いだせる限り、公的な場に書ける程度に記録しておこうかなと思っています。