励ましの言葉
2010/11/18 18:29:22
中傷された君に言う。
蠅(はえ)たちの集まりでは、
蝶(ちょう)も「キモイ」と陰口をたたかれるだろう。
心ない者たちのうちにも 自分と同じ美しさを探しつつ、
君はひとり、大人になればいい。
2010年11月17日 読売新聞の記事の転載です。
読売新聞の朝刊コラム「編集手帳」をPRする広告デザイン「学校編」=写真=が、
「消費者のためになった広告コンクール」(日本アドバタイザーズ協会主催)雑誌広告部門で
金賞を受賞し、表彰式が16日、東京都内のホテルで開かれた。
消費者と有識者が審査員となり、消費者の視点で選んだ。
受賞作は、同級生にいじめられたのか、放課後の教室に一人残る男児の写真に、
竹内政明論説委員による「編集手帳」の励ましの言葉が添えられている。
広告ポスターは小学校の道徳の教材にも使われた。
『 ナイフ 』
2010/11/17 20:57:17

新潮社 (2000/06) 坪田譲治文学賞受賞作。
「悪いんだけど、死んでくれない?」
ある日突然、クラスメイト全員が敵になる。
僕たちの世界は、かくも脆いものなのか!
ミキはワニがいるはずの池を、ぼんやりと眺めた。
ダイスケは辛さのあまり、教室で吐いた。
子供を守れない不甲斐なさに、父はナイフをぎゅっと握りしめた。
失われた小さな幸福はきっと取り戻せる。その闘いは、決して甘くはないけれど。
私はナイフを持っている。
これで息子を守ってやる…。
小さな幸福に包まれた家族の喉元に突きつけられる「いじめ」という名の鋭利なナイフ。
日常の中のゆがみと救いをビタースイートに描き出す出色の短編集。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * 以上 amazon 商品説明 から * * * * *
「ワニとハブとひょうたん池で」
町の池にワニが住み着いた。
特別な理由もなくイジメの対象にされているミキは池に集まる人たちを見て思う。
捕まえるだけじゃ物足りないんだ。
ワニが暴れて、ここにいる誰かに噛みついて、悲鳴があがって、血が飛んで、
最後はワニも殺されちゃわないと、「今日はつまんなかったな」なんて言いながら
引き挙げるんだ。
ゲームだもん。 こんなの、全部。
恨みや憎しみがなくたって、こんなふうに追い詰めていって、笑いながら殺すこともできるんだ。
「ナイフ」
マイホームを購入し、妻と息子と平凡ながら幸せな暮らしをしていくはずだった。
息子が中学生になり、何かが少しずつ変わっていく。
背が低いからイジメられるのか? イジメられたから自分より弱い者を更にイジメるのか。
息子と学友、駅前ロータリーにタムロする若者。
父は露天商から サバイバルナイフを購入していた。
「キャッチボール日和」
野球好きの父に荒木大輔と同じ 大輔 という名前をつけられた大輔はイジメによる登校拒否児。
そのイジメの内容は、心身共にわたる悲惨な描写がされている。
大輔が転校していった後の教室と生徒たち。
傍観者的立場をとっていた大輔の幼馴染:好美は思う。
「完全なコドモじゃないから、やってはいけないことや悪いことは、たくさんわかっている。
でも、やっぱりコドモだから、わかっていることをうまくやれない。」
「エビスくん」
転校生の戎(えびす)君。
兄ひろしから転校生の話を聞き、ご先祖様はエビス様かもしれない。会いたい。
と言いだす妹は、重篤な病でいつどうなるかわからない。
日々、えびす君からイジメをうけているひろしは、エビス君に見舞いに来てくれとも言えず。
「ビタースィート・ホーム」
教師から見た「 正しさ 」の指導と親から見た「 正しさ 」。
子育てにおいて、正しいことが全てなのか。
そして親は果たして、正しく育てることなど出来るのか。
親も教師も 正しい子どもの教育 なんて現実に可能なんだろうか。
イジメる側とイジメられる側。
そこには、それぞれの理由があったり無かったり。
現実にも明確な理由など存在しないのかもしれない。
ただ、社会では 犯罪レベル の行為が無法地帯のように行なわれている。
親の影響なのか、平和すぎる世の中のせいなのか。
老人と触れあうことのない核家族化が、死に対する認識を弱めたのか。
一人として同じ人間は居ない。
その人間たちが関わるイジメには、同じケースもないのだと思う。
良いこと、悪いことは、おそらく百も承知で、それでもやってしまう。
「 それは、悪いことだ 」と諭しても何の意味もない。
イジメに気づいた人が出来ることは何なのだろうか。
イジメを終わらせれば、それぞれの子のその後は平穏になるのだろうか。
そんな取りとめのない、答えが見つからないようなことを考えていました。
夢と希望
2010/11/16 20:07:51
そう聞かれて、まるで夢を持っていないといけないかのように感じる人が少なくないらしい。
同じように「 使命 」「 天職 」果ては「 生きている意味 」。
十代半ばの方から「 私は夢とか使命とか持っていないんです。 」というようなメールを頂いたことがあります。「 自分の存在意義が見いだせない 」という高校生も居ました。
最近では、「 夢を叶える 」とか「 これが私の使命だと気付いた 」
「 天職に就く 」などの言葉がネット上でも多く見受けられます。
これらの言葉によって、日々が有意義に過ごせるようになったなら、それで良いと思います。
でも、それらのことを意識するが故に 自分を過小評価しないようにしましょうね。
夢は、探すものでも、持つべきものでもない。 と思います。
夢は、その時々の自分の中に湧きでてくるもので、無い時期があっても自然です。
それは、常に恋していなければならない! というワケではないのと同じ感じかな。
無理に恋して、「持ちたくて」持っても すぐに覚めます。
確かに夢を持って、意識して過ごすことによって、日々の行動が変わることがあり、
充実感も味わえるでしょう。
それも とても素晴らしいことだと思います。
但し、 そ れ 「 も 」 です。
そうじゃなくても、素晴らしい日々は送れると思うのです。
場合によっては、「 夢 」はいつしか「 叶えたいこと 」となり「 どう~しても! 」から
「 執着 」へと繋がる。
すると「 やっぱり自分はダメだ 」「 出来ない 」「 上手くいかない 」など 自己否定的
苦しみが生まれてきます。
人間は、自分の使命を認識し、夢を持って、天職に就いてなくても生きていけます。
それらのことは、後から・・・必要な時々に・・・様々な形に変化しながら
流動的に浮かんでは消え、また形を変えて浮かぶ。
若い時に浮かばなくても、日々のやるべきことをやっている中で40代、50歳代で浮かぶこともある。
それで良いのだと思います。
大切なのは、
夢でも使命感でも天職探しでもなく、未来に漠然とでも「 希望 」を感じていられるかどうか。
肉体的希望でも、個人的希望でもなく、思う通りにはいっていないようなこの世の中に
自分の日々の中で 「 希望 」を持ち続けることが出来るかどうか。
言葉で説明する必要もない、「 希望 」を感じる力を育むこと。
それが、生きている意味ではないかな。
既に持っているモノ、起こったコト の中にその 種 は潜んでいます。
それが素敵なモノでも、好ましいコトでなくても、ちゃんと 希望 は潜んでいるんですよねぇ。