コヨーテの法則
2010/03/09 18:28:03
自らの答えに気づくように仕向けるという アメリカ・インディアン流の教え方です。
問いに対して、ストレートに教えるとは
「どうして、こうなんですか?」→「それは、こうだから、こうなんです。」って感じかな。
「そっか。」「なるほど」「そういうことか。」「そうすれば良いのか。」って納得できますよね。
ところが仏陀、キリストなどの教えとして書かれている書物を読むと・・・・
「 分かるよ~な、分んないよ~な~、な~んか、まどろっこしい 」←失礼を陳謝!
例えば、このブログでも昨年のクリスマスに書いた「ルカによる福音書」の話とかね。w
以前、紫藤は「 その人のその時の状況によって、感じる答え方が違うように書かれている。 」
と思ってました。
小説なども 以前に読んだ時と何年後かに読んだ時に感じることって違いますよね。
そういう意味あいも有るカモしれない。
でも最近は、
答えを聞いて、そうかと納得し、覚えても それが自分の学びになっているとは限らない。
確かに知識は得たかもしれないけど、自分のものとして浸透してないから使いこなせない。
だから「 答え 」を与えるのではなく、自分の答えを考え、見つけられるよう
身をもって学ぶことへと 導いている。と感じます。
アメリカ・インディアン、ミックマック族の長老の話です。
「わからないことは、そのままにしないで、どんどん尋ねなさい。」と言いながら
質問しても「 いまにわかる。 」「 体験の中で間違いを犯しながら学べば良い 」
などという答えしか くれない。
そして一見、質問とは関係のない状況の中、質問者の話しぶりや行動を通して、その理解力を見極め
程良い頃あいに 知りたがっていた答えをさり気なく示唆してくれる。
するとその人は、「あ!・・・」と学びの瞬間を 自ら迎える。
「 頭でなく、こころで学ぶのだ 」と長老に 頭をトントン♪ そして胸をトン!と軽く叩かれた アメリカのジャーナリストさんからの話です。
言葉や説明からの知識のままではなく、自分のこととして実際に体験し、得たことは
一言では説明できないほど、深い智恵となっているように思います。
そして、同じ問いへの 人それぞれの答えにも気づくと
「 どうしてこうなんですか? 」に対して、1つの答えをポンと返せるほうが不思議に感じる。
問いかけに与えられるのは、小さな「 種 」。
小さくて気付かないかもしれない。
「種」を答えだと思いこむかもしれない。
そして、今は理由が分らずとも 種を育てていく人も いる。