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- 2011/03/24 被災地のテレビ放送
- 2011/03/23 これをキッカケに 細く、長~く
- 2011/02/02 節分と言えば、鬼
被災地のテレビ放送
2011/03/24 17:33:41
子どもたちには、そのまま悲惨なこととして インプットされてしまいます。 』
というような書き込みを見かけました。
私は、こう思います。
見せ方、見る時の状況によるのではないかな。
子どもが独りぼっちで見ているという状況は、確かにいかがなものかと思います。
ですが、それは「 悲惨な画面だから 」ではなく、何故独りで?という点です。
その部屋に大人が居て、料理をしながら、くつろぎながら、食事を一緒にとりながら
その報道を見て、大人が、親が、何を話すか。
子どもと どんな会話をするか。
それが大切なのだと思います。
子どもに ストンとインプットされるのは、見たままの画像と共にそれをどう捉えるか。
それは、子どもの傍に居る大人に大きな影響を受けます。
駅員さんに「昨日一生懸命電車を走らせてくれてありがとう」って言ってる小さい子達を見た。
駅員さん泣いてた。
という話を聞きました。
コンビニで、小さい男の子が
「ポケモンのゲーム、買わなくていいから、ここへそのお金を入れて~」
と募金箱を指差して、母親に言っている子がいた。
という話も聞きました。
これらは、子どもに普段、何をどう話しているのか、今回の震災に関して何をどう話しているのか、親・・特に母親の影響が大きいと感じています。
節電による臨機応変な間引き運転の報道を見て、
「 いやぁねぇ~、不便になるわぁ~、仕事行くのも大変だぁ・・・ 」
と言っているか、
「 駅員さんたち、本当に大変よね。それでも何とか電車を動かしてくれて感謝しなくちゃ。 」
と言っているか。
・・・・・・・もっと素敵な言葉を ポツンと子どもの前で呟いているかもしれませんねぇ。
それは、まさに自分は、物事をどう捉えているかが、試されるということ。
これを機会に、子どもと共に考え、意見を交換するということも 素敵な人間を育てあげることに繋がるかもしれません。
自分自身も 1歩育つかもしれません。
子どもに、 見せない! やらせない! 制限する! ということの無意味さは、
ゲームやネットなどで、充分に分っている人も多いかと思います。
大切なのは、その画像から、何を子どもたちに伝えていくのか。
そっちではないでしょうか。
子どもは確かに未熟ではありますが、そんなに愚かでもないと思います。
我が子を信頼し、人間育てを必死でやることの方が、見せないことより重要なのではないでしょうか。
これをキッカケに 細く、長~く
2011/03/23 17:09:53
チャリティ・イベントも大小各地でもようされ、『 今、自分に出来ること 』
という風潮が高まっています。
普段は、自分で投票した、もしくは投票に行っていないのに 当選した人や政党を支援するではなく、むしろダメだしする声が多いという風潮は、控え目になっています。
どれも素晴らしいことだと思います。
被災にしても、犯罪被害にしても、起こった直後だけの問題ではなく、
ずっと、ずっとその後もずっと被害者の方々の困難は続きます。
しかし、被害に遭っていない人達は、日々そのことから遠ざかって行きます。
1年後、2年後のその日には、マスコミも取り上げ、思い出すかもしれませんけど。
『 今、自分にできる支援 』は、本当に尊い行動ですよね。
そして、出来れば、『 今 』だけでなく、『 これをキッカケに 』
献血・募金・チャリティイベントを継続していくことの重要性を感じます。
時と共に、マスコミ報道の変化と共に 記憶の中に葬られても、現地は未だコツコツと動いている。
仮設住宅にお世話になったことはありません。
1995年(平成7年)1月17日(火)に発生した阪神大震災のあった年末、テレビ報道でまだ仮設から出られない人達の声を聞いただけです。
夏は暑く、冬は隙間風で寒く、音はダダ漏れ。
でも、すでにボランティアも居ず、支援金もなく、行き場もないので、ここに居るしかない。
そんな内容だったと思います。
仮設はあくまで仮りの宿。
そんな生活を何年も続ける人が、出来れば出ないよう、心や環境の支援も重要なのでしょう。
『 今 』は、刻々と流れて、連綿と続く時の一瞬。
『 今 』は、被災直後の数日、数か月ではないということ。
精一杯の支援をして、『 良し!やれることはやった。 』というだけにならないよう、
支援を受ける人が、何を必要としているのかに ちゃんと耳を傾けて
細く、長~く、支援を続けていけるといいなぁ・・・・と感じます。
節分と言えば、鬼
2011/02/02 16:58:31
以前、ブログにも書きました。 ⇒ 『 泣いた赤鬼? 』
最近、漫画でこんな話を読みました。
豆まきで悩んでいる人に会いに行くという師匠についていった少年。
その人は、鬼でした。
「 どうして、鬼ってだけで、こんなに差別されなくちゃいけないんだ・・・ 」と悩んでいる。
彼は鬼に生まれた ごく普通の男の子でした。
大きくなるにつれ、自分が皆と違って角があることに気づき、お母さんに「 なぜ? 」と聞く。
お母さんは「 鬼だからよ・・・・ 」と。「 へぇ・・・鬼かぁ・・ 」
それから数年後、『鬼』をウィキペディアでたまたま調べて、愕然!
『鬼は、日本の妖怪。民話や強度信仰に登場するもの、恐ろしいもの、強い物を象徴する存在。』
自分は、悪くて恐ろしいものだったのかと知ります。
それから彼は、悩み悲しみます。
何故、鬼は鬼というだけで嫌われるんだ!
肌の色? 角が生えているから?
それとも・・・鬼は嫌われるためだけに 生まれてきたのですか・・・・?
***週刊少年サンデー2月9日号「渇!!ワシが師匠ぜよ!」より 小笠原真;著***
これはギャグ漫画なので、オチがあるのですが、ここまではかなり切ない。
(オチは、単行本が出たら買って読んでみてください。)
この作品の中にも出てましたが、青森の一部地域では、鬼が親しまれており
「 福は~内、鬼も~~内 」と豆まきをするところもあるそうです。
私の父は、ハワイで生まれ育ったというだけで、「 あの人と結婚すると外人が生まれる 」とワケの分らない陰口とか、怪我した口元は、「 ミツクチだ 」と勝手な噂を流されたり、その他、当時はまだまだいろいろ差別があったようです。
現在はないのでしょうか。
先日、とある県の町では、今も結婚する前には必ず部落出身かどうかを調査するのが当たり前だという話を聞きました。
部落差別の話を 初めて聞いたのは大学の教養課程でとった民俗学でした。
部落出身者は、青い血が流れていると、本気で言われていたらしい・・・・・・あり得ないし。
そんなことが信じられていることに かなりショックを受けたのを覚えています。
こういった差別は、「なぜ、★★だと、悪いのか、いけないのか」と聞くと
大抵、根拠のないワケの分らない植えつけられた蔑視に辿りつきます。
悪の象徴である鬼は、どこに居るのでしょう。
鬼は、鬼が視える人の心の中に・・・・・。
そう、私は感じます。